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2011年2月24日木曜日

Twitterで一万人以上フォローするのはカッコ悪い!?一見正論は怖いなぁ

「いまさらながら」ではじまるTwitter論を見て考え込んでしまいました。
この方には悪気は全くないんだろう。
文章はうまいなぁ。
こういう人なら放っておいても読者の方から勝手に集まってくる。
まさに言われていることは正論だし、同じことができたらかっこいいだろうな。

とは思うわけですが、さりとて功罪で考えると良いことを言っているという面より罪のほうが圧倒的に大きいと言わざるをえない。

功罪の功の部分は紛れもなく、よくわかっていない人にもぱっと見て嫌味ではない文章で、Twitter参加者の中の一見、凄そうに見えるが実はどう仕様も無い最低人間を見分ける方法が巧みに描かれている。
なんとはなく分かっていたひとも、これを読むとそうなんだ、ここが注目点ね。
ここを見るとインチキ者がひと目でわかるんだ。
見る目が養われなくなるから悪いという部分は置いておくとして、よくまとまっています。
でも、魚を与えるより釣り方を教えろというように、これだけ文章力がある人ならば、ひとを見抜く考え方を教えるべきなんだろうな。


罪の部分はとても大きくて深い。
喧嘩が売りたいのではなくて、この人は優れた人なのはまったくもって異論がないのです。
そして生まれ持って優れたひとは、人は同じではないということになぜか気付けない。
すぐに忘れてしまう。

子供の頃でもおとなになっても、何故かふしぎとひとが集まってくる人気者っています。
とても魅力的で大勢がその日と問いたいと自然に心から感じる。
その人といると、楽しいし豊かな気持ちになれる。
充実した時間が送れる。

そういう人はとても素敵です。

もしも、そのひとが
友達なんて作るもんじゃない。
友だちになろうなんてカッコ悪いだろう!?
友達ってものは、自然にできるもんなんだよ。
放っておいても相手の方から一緒に遊ぼうって、集まってくるのさ。
だからね、友だちになってなんていうのはカッコ悪いだろ。
黙って自分らしく生きていればいいんだ、友達であふれるよ。

そこまで言うかどうかはわかりませんが、似たことをいう人、書く人はいるようです。

正論だし格好いいし理想てきです。

それを実践して、そのひとのようにともだちに囲まれないにしても、友達が十分できて幸せな人生を送れるならいいですよね。
だけど、多くのひとは自分から積極的に友だちを作るための行動は取らない。
どちらかといえば、恥ずかしくてとれない。
そもそもどうすればいいのかわからない。

正論を聞くと、そうかなにもしないほうがいいいんだ。
むしろ友達を作りた行って思うからかっこ悪くて友だちができないんだ。
なにもしないで、友だちになりたいって奴が来るのをまとう。
それがかっこいい生き方ってもんだし、そうじゃなきゃいけないんだ。
よしもう、友達来るための努力するなんてやめるぞ。

もしかすると、独居老人になって寂しく孤独死してしまうかもしれないですよ。

ひとはやっぱり努力が必要です。
努力しているひとをカッコ悪いっていうのは、優れたひとの傲慢かもしれません。

彼が例に挙げているような人たちは、わたくしは居なくなってくれたらいいなと、素直に願うひとかたまりの人達で、それをわかりやすく解説している文章は素晴らしいし、よく書いてくれたと喝采したいほどです。

でも、それを読んだ善意の普通の人が、努力することをやめる理由に使う。

Twitter限定で言えば、数十人の知り合いと繋がってもそれほど楽しくないです。
ごく一部活発に仕事を兼ねて使えるような人たちを覗くと、つぶやくこともさしてありません。
読んで面白いようなつぶやきなんてめったにないです。

結局何も無いし起きないからアクセスする必要もない。
むしろ時間の浪費だからやめたほうがいいとなってしまう。

日常生活で人と触れ合うことがなんとなく難しい現代。
隣に誰が住んでいるかもわからない。

数十年前はドアにかなんかかけないし、そもそも冬以外はドアなんて昼間は閉めない。
隣近所に知らない人が住んでいるなんてありえず、みんな幼なじみだし近所のおじさんおばさんだし。
ひととの接触が当たり前だった時代に生きていればいいんですが、いまはドアには鍵を掛ける。
それでは足りなくて、こわくて、あぶないから二重ロックも当たり前。
マンションなら建物そのものに入るにも別にキーがいる。

建物に誰が住んでいるかなんてわからないし、隣の住人の名前を知っていればたいしたもの。
何人住んでいるかもわからない。

そういう日常の中で、ひととふれあえる気楽な場所としてTwitterとかSNSとかブログとか、もっとはやくにはメーリングリストなんてものがあって、ほんのちょっと努力してみると人と接することができる。

そう、ほんのちょっとだけは努力がいる。

Twitterって、人から聞いていたとおり、数十人や数百人のフォローしあう相手がいても面白くもなんともない。
一時的にはなにか話をしても、結局タイミングも話題も合わなくて終わる。
アカウント、そういえばあったっけ・・・

ひとつの目安でしかないんですが、1万人超えるとなんとなく会話できる相手がいつもいるようになってきて、数十年前の近所付き合いじゃないけど気軽に語れる相手ができてくる。

こういう場が、ある程度根付いたら一万なんて数はバカバカしくて数百人もいれば楽しめて数千人もフォローしあったらうるさくて仕方なくなるんだろう。
そうなると期待していたメーリングリストはブログやSNSにとってかわられてしまったんですが、Twitterかどうかはわかりませんが、インターネットは常に人の心のかなにある誰かと繋がりたいという気持ちをみたすようなサービスが現れてあるとき爆発的に広まります。

うまくそれを活用できれば、人と人とのつながりができやすい社会ができてくる。


努力しないほうが格好悪くて、ダサくて、いけない。
立ち泳ぎしているひとは水面下で足を一生懸命動かしている。
そんな見せない一生懸命さも、ちょっとだけあっていい。

努力を放棄する言い訳を、うまくつくってしまうのは嫌いです。
一万人もフォローできないなんて、ひとづきあいの基礎も練習しないなんてだめじゃないのと言うような、近所のおばちゃんがいてくれてもいいかもしれない。

だってリアルで人付き合い始めるのはしんどいです。
難しいです。
怪しまれてしまいます。

もっと使ってみたほうがいいと思う。
一年以上、登録して使わなkったTwitterも何人にも言われて一万人をフォローしてみようと思ったのは2年以上たってから。
やってみるとちょっと大変だった。
結果は、適当に言われている一万人超えるとなんとなく世界が変わるよというのが体験できました。

つぶやいていると、なんとなく話し相手をしてくれる人がいる。
ちょっと面白い話が聞ける。
それでいて井戸端会議みたいに時間取られないし、嫌な話題はスルーしやすい。


軽い努力してみないのはカッコ悪いと思う。
やらない言い訳を作ったり広めるのはダサいと思う。
やらないうちからできないと決め込むのは、寂しすぎる。
ちょっと面倒だけど、やれば何かが変わる。

そこからはじめないと、なにもかわらないまま人生ってあっけない。

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